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「逃げるな、火を消せ」☆国民の命でなく、国家体制を守ろうとした防空法とその運用により、被害は拡大

NHK 「特報首都圏」偶然先週はドローン・レボリューション ~無人機 始まった“空の革命”~放映^^;;
ドローン騒動にはあっという間に規制を、放射能汚染にはいまだただ漏れ状態。
自宅に除染した土や草置いたおうちも多いそうです、セシウムなど首都圏で珍しくも
ありません.。

今日の放送は 戦後70年 “禁じられた”避難 ~知られざる空襲被害の実態~

東京大空襲の後、全国の都市に拡大していった空襲被害。
大量の焼夷弾攻撃で膨大な数の民間人が亡くなりました。
多くの人が“逃げずに亡くなっている”という事実が浮かび上がってきました。
背景にあったのが国策として避難を禁じていた「防空法」の存在。

当時の関係者や議事録の取材から“命を守る視点”が棚上げにされていた実態も。


追記☆明日までの期間限定で動画もアップします★



東京新聞でも記事にしてました。

防空法で犠牲拡大 空襲時「逃げずに消火」


2015年3月4日

多くの方の証言を記事にしています、こういう事を江戸しぐさなんていう?のことより教科書にと思います。
竹やりでB29を落とす、バケツで焼夷弾を消す、ほんとうになんという状況把握、

原発の安全神話のみならず、日本は神風が吹くと言う神話本気で信じてたようです・・

「兄は消火を手伝わされたのか」と、東京大空襲の体験を振り返る築山実さん=東京都江東区で(川上智世撮影)
写真

一九四五年三月十日未明、東京の下町が炎に包まれた。
米軍の長距離爆撃機「B29」約三百機が、千六百六十五トンもの焼夷弾)を落とした
東京大空襲。無差別爆撃で約十万人が亡くなった。

当時は日本政府の方針で防空法で「逃げるな、火を消せ」と定められ、
これが犠牲者を増やしたと指摘されている。 (奥野斐)

「兄さんはあの猛火の中で声をかけられ、消火活動をしたと聞いた。信じられない」。
東京都江東区の築山実さん(86)は空襲の時、十六歳。四つ上の兄と炎の中で離れ離れになった。

爆撃が始まると、築山さんは両親、兄、妹と家から逃げ出した。
炎の勢いは想像以上だった。自宅前の通りを北へ走った。
「忘れ物をした。すぐ戻るから」と兄が引き返し、それが最後の姿となった。

写真
当時、総武線の両側は強制疎開で空き地となり、そこに防空壕)があった。
六歳の妹と母はそこに逃げ込み、妹は蒸し焼きのようになって亡くなった。
母も終戦前に亡くなるほどの重いやけどを負った。

築山さんと父は、ガード下に避難した。吸い込む空気は熱く、頭の鉄かぶとも焼けた。

「真綿で首を絞められるような苦しさだった」。目の前で少年が力尽き、燃え上がった。

二人は火の粉を払い続け、生き延びた。

 戦後、近所の人から兄の消息を聞いた。自宅に引き返した後、防火責任者から声を
掛けられたようだった。「逃げるんじゃないと言われ、消火を手伝わされたのか」。
ろくな装備もなく炎に立ち向かったという話が、今も納得できない。

 しかし当時は「空襲が来れば火を消すのが国民の務め」だった。
国民に都市部からの退去を禁じ、消火に当たることを義務付けた防空法が、
そんな空気づくりに一役買った。

写真

 法令に従い、各地で住民がバケツリレーなどの訓練を繰り返した。

築山さんの一家でも、隣組の組長だった父は訓練に欠かさず足を運んだ。

築山さんも一、二度参加し、火に見立てた発煙筒に防空頭巾の女性たちとバケツで水をかけた。
実際の炎には「焼け石に水」で、消火活動をしたため逃げ遅れた人も出た


「いざとなったら神風が吹くと国民は信じていた。

大空襲の日も燃える家にバケツで水をかける人がいた」。

空襲を体験し、「東京大空襲」を記した作家、早乙女勝元さん(82)が語る。
「避難が許されていれば、十万人もの犠牲者は出なかったはずです」

玄関脇に残る防火水槽を前に当時を振り返る吉田八重子さん
写真

◆防火せず逃げれば…


庭先の小さな防火水槽、バケツリレー、床下に穴を掘っただけの防空壕(ごう)…。

第二次世界大戦末期、粗末としか言いようのない空襲対策の背景には防空法令の存在があった。
「逃げるな、火を消せ」。地域での訓練を通じて法の意図が徹底された。

一九四五年三月十日、米軍の空襲で下町の約十万人が亡くなった。
「逃げていれば、こんなに死ななかったはず。防空訓練がわざわいとなったのだ」。

当時の警視総監の胸には後悔が残った。

「広い隅田川を、炎が波のように渡った。
浅草側からこちら側の隅田公園の桜の木に火が燃え移るのが見えた」
東京大空襲の夜、逃げ惑った赤沢寿美子さん
写真

 中略ー

◇ 東京大空襲の直後、米軍は名古屋、大阪を本格的に爆撃し、その後は地方都市までも
標的にした。
被害は口づてに伝わり、法で禁止されていたにもかかわらず、地元を離れる人が増えていた。

そんな住民の動きを抑えようと、行政が防空法を根拠に罰を振りかざしたこともあった。

終戦一カ月前、米軍が青森に空襲を予告するビラをまき、避難する市民が相次いだ。
当時の金井元彦県知事の発言を受け、青森市は「七月二十八日までに帰らないと
町会から名前を消し、配給を受けられなくする」と通告。
予告通り米軍は六十機余りのB29で青森を空襲した。七百人以上が命を失った。

避難させていれば、助かった人もいたのではないか。

東京大空襲の当時、警視総監だった坂信弥(のぶよし)は戦後、
「わが生涯における最大の痛恨事」と空襲を振り返った。

「東京大空襲・戦災誌」四巻(東京空襲を記録する会刊)に収録された
「防火訓練がかえってわざわい-『私の履歴書』より-」と題した文章にこうある。

「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の
防空訓練がかえってわざわいとなったのだ」 (奥野斐)

 <東京への空襲> 1944年11月以降、米軍の空襲が本格化した。

当初は軍事施設を目標とし、45年3月10日の東京大空襲以降は、
焼夷弾で無差別に市街地を焼き払う「絨毯(じゅうたん)爆撃」になった。
東京大空襲・戦災資料センター(江東区)によると、東京の区部が被害を受けた
空襲は60回を超えた。

確認された遺体は計10万5000人余、焼失面積は区部の市街地のほぼ半分に当たる
約140平方キロメートルに及んだ。

 <防空法> 
軍でなく官、民での防空について定めた法律。
1937年に施行され、灯火管制や防空演習への参加協力を義務付け、
国民を防空態勢に組み込んでいった。

41年の改正で都市からの退去禁止や空襲時の応急消火義務が加わった。
罰則も強化され、退去禁止に違反した場合、6月以下の懲役または500円以下の罰金
が科された。終戦後の46年に廃止。



◆民間被害者へ補償を



水島朝穂さん(61) 早稲田大法学学術院教授<

 「私達は『御国を守る戦士』です。命を投げ出して持場を守ります」。

一九四三年に内務省が発行した「時局防空必携」の巻頭にある言葉に、当時の政府の姿勢が見える。 

地方への避難で都市から人口が流出すると、都市の機能や生産力が低下し、
敗北感が広がる

戦意喪失を恐れる政府は、犠牲を減らすより国家総動員による戦争遂行を優先した。
防空法はその目的のために効果的だった。

 国民に消火義務を負わせ、隣組の相互監視の中で訓練を繰り返し、
「猛火にも立ち向かう」という精神論を強調した。

「空襲は怖くない、逃げる必要はない」と徹底し、バケツリレーやはたきのような
「火たたき」などの非科学的な方法での消火を強いた。

そして、足手まといになる老人や幼児ら以外の国民を「戦争協力は国民の義務」
と都市部に縛り付け、大きな犠牲を招いた。

その政策に対し、当時の議会でも疑問を投げかける者がわずかだがいた。

大空襲の翌日に開会した帝国議会で、貴族院の大河内輝耕(きこう)議員が
「人貴キカ物貴キカ」と人命を優先するよう政府を追及した。
それでも方針は変わらなかった。 


昨年出版した「検証防空法-空襲下で禁じられた避難」で、二〇一三年に大阪高裁が言い
渡した大阪空襲訴訟の控訴審判決を紹介した。

高裁は防空法制などで初期消火にあたった国民が「危険な状況に置かれた」と認めた。

 しかし、これまで民間の空襲被害者への補償は行われていない。
軍人、民間人を問わずに補償するドイツと対応が異なっている

国民の命でなく、国家体制を守ろうとした防空法とその運用により、被害は拡大した。
このことは空襲被害者への補償の根拠となりうる。

守るべきは命か国家体制か、という防空法からの教訓は、特定秘密保護法が施行され、
新たな安全保障法制の議論が進む戦後七十年の今、再び問われるべきである。
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2015-04-24 21:33 : 戦争 :
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